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札幌高等裁判所 昭和39年(う)358号 判決 1965年3月20日

主文

原判決中被告人に関する部分を破棄する。

被告人を罰金三万円に処する。

右罰金を完納することができないときは、金五百円を一日に換算した期間、被告人を労役場に留置する。

理由

<前略>

本件公訴事実中被告人にかかる業務上過失傷害の事実については、被告人の業務上の注意義務の存在の点を除き、原審もこれを認めるところであり、記録上これを肯認するに十分である(弁護人は、原審相被告人工藤勝利は運転技術にかなり熟達していたものであり、同人に運転を許容したからといつて直ちに被告人が事故発生を予見し得たということはできない旨主張し、被告人も当公廷において右主張に副う供述をしているが、右工藤は運転操作の練習こそしたことはあるが、運転(道路におけるものをいう。道路交通法第二条第一号、第一七号参照。)の経験は皆無であつた事実および本件事故の態様に照らし、右主張および供述は到底採用の限りではない。)。

論旨は、右事実関係を前提とし、被告人には自動車運転の業務に従事する者として、自己が安全に運転管理すべき責任のある自動車の運転にあたり、(一)事故発生の予見される運転無資格者工藤に運転を許容し委ねたという作為による注意義務違反と(二)右工藤の運転中に助手席に同乗しながら事故を防止するための運転操作の指導監督を怠つたという不作為による注意義務違反が認められ、右注意義務違反と本件事故発生との間には法律上の因果関係が存在するにもかかわらず、原判決は刑法第二一一条前段所定の「業務上必要ナル注意」の解釈を誤り、ひいては事実を誤認し、被告人に業務上の過失を認め得ないとして無罪を言い渡したものであり、右違法は判決に影響を及ぼすこと明らかな場合に誤るから破棄を免れない、というのである。

よつて、右主張の当否を按ずるに、論旨は被告人に二個の業務上の注意義務違反――すなわち、(一)危険(法益侵害の蓋然性ある状況)の発生を制止すべき義務および(二)危険な状態における用心深い態度に出るべき義務の違反――があると主張するので、右各注意義務相互の関係について、まず検討することとする。本件の場合、右(二)の「危険な状態」は(一)の注意義務違反によつて招来されたことが明らかである。ところで、実定法上現実に結果が発生した場合にのみ過失犯の成立を認め得るとされている以上、発生した結果と無関係にある時点における被告人の不注意な行動を非難することは無意味であるから、被告人の過失責任の存否を判断するには、まず、現実に生じた法益侵害の結果を起点として因果の連鎖を遡り、被告人の作為または不作為によつて因果の流れを変え得たと目される最初の分岐点において被告人による結果の予見およびその回避の可能性を検討し、これが否定された後はじめて順次それ以前の段階に遡つて同様の検討を繰り返すことが必要であり、かつ、これを以て足りるといわなければならない(かかる方法による無限の遡及については、相当因果関係による制約の存することはいうまでもない。)。本件についてこれをみるに、まず、発生した結果に最も近接する論旨(二)の注意義務の存否を確定することが先決問題であり、これが肯認されるにおいては、それ以前の段階に属する論旨(一)の注意義務の存否を論ずることは、被告人の刑事責任を追究する上で全く無意味であるということになる。換言すれば、論旨(二)の注意義務が肯認される限り、その遵守によつて結果発生を回避できたことになるのであるから、それ以前の段階において被告人に如何に道義的非難に値する不注意な行状が認められようと、かかる行状は、発生した結果に対する被告人の過失責任を基礎づけるものではなく、(二)の時点における被告人の注意義務の前提となる客観的状況の一つとして把握すれば足りるのである。

そこで、論旨(二)の注意義務の存否につき判断する。原判決はこれを否定し、その根拠として、自動車運転者に業務上の注意義務が科せられるのは「自己が直接に運転業務に従事することによつて、人の身体、生命等に直接に危害を加えるおそれが強いとともに、自己の行為によつてこれを容易に防止しうる立場にある」ためであつて、「無資格者、技術未熟者等の運転する車に同乗する自動車運転者であつても、他人の運転する車の同乗者である以上、直ちに自身が運転している場合と同様の事故防止の措置をとりうるものではないことはいうまでもないから、特に自身で運転する場合と同視できるような特別の状況にない限り、自動車運転者として要求される特別の強い注意義務を負わせることはできない」ものというべく、本件の場合は右特別の状況は認められない旨判示する。しかし、自動車運転者に高度の注意義務が科される根拠は「直接の運転行為によつて生ずる危険」とその回避の容易さとに尽きるものではなく、本来その操作を誤るにおいては人の身体生命に重大な危害を及ぼすおそれのある高速度交通機関につき、それが社会生活にもたらす多大の便益に鑑み、その運転それ自体を違法として禁止することなく、いわゆる「許された危険」として容認する一方、いやしくもこれが運行管理の衝に当る者に対しては、その運行に際し生ずべき危害の発生を避けるため必要にして可能な一切の注意を尽くすことを要求して相異なる法益間の調和を図る点にあるものというべく、ここに「自動車の運行」とは狭義の運転行為に止らず、発進に先立つ車体の点検、駐、停車時の措置等ひろく運行の開始から終了に至る全過程(換言すれば危害発生のおそれある全過程)を包含すると解するのが相当である。そうだとすれば、自動車運転者は、自己がその運行を管理する自動車に関し、その運行によつて生ずべき一切の危害発生を未然に防止するため必要にして可能な注意を尽くすべき義務があり、自己が直接右自動車の運転に従事する場合と他の者にその運転を委ねつつ車中に在る場合とにおいて右義務の存否に差違を生ずべきいわれはない(ただ、結果回避のため講ずべき措置の相違から、運転中の者と然らざる者に科せられる具体的注意義務の態様が異るに過ぎない。)。原判決は、被告人の注意義務の存否を判断するに当り、単に「無資格者、技術未熟者等の運転する車に同乗する自動車運転者」の注意義務としてこれを把握し、これを肯認するための独自の条件を設定するものであり、「自己の運行管理すべき自動車の運転を無資格者、技術未熟者に委ねつつその車中に同乗する自動車運転者」の注意義務に想到しなかつた点において解釈の前提を誤つたものといわざるを得ない。

そこで、進んで被告人の本件における具体的な注意義務の内容につき検討することとする。およそ運転資格なく、技倆未熟でかつ酒気を帯びている者に対し自己の運行管理する自動車の運転を妥ねることは強い道義的非難に値し、また道路交通法に違反する行為であるとはいえ、かかる者の運転行為であつても道路および交通の状況、運転する速度方法の如何によつてつねに必らず事故を招来するものとは限らない(現に原審相被告人工藤勝利は本件事故発生に至るまでの約三〇分間は無事運転を継続している。)のであるが、これらの要素は運転継続中に刻々変化するものであるから、かかる者に自己の運行管理する自動車の運転を妥ねつつ車中に在る自動車運転者としては、絶えず歩行者の有無、対向車その他の車両等の交通量、地形、路面の状況、障害物の有無、建物その他道路周辺の工作物等の状況、進行速度その他一切の状況に深甚の注意を払い、運転中の無資格者の技倆の程度に応じ、事故発生の危険が予見されるにおいては、ただちに減速、徐行、運転方法の変更その他適切な指示を与え、要すれば運転の中止を命じて自身で運転する等随時適切な措置に出て、もつて事故発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があると解すべきである。本件にこれをみるに被告人は、運転資格なく、技倆未熟でかつ酒気を帯びていた原審相被告人工藤勝利に被告人の運行管理する本件自動車の運転を妥ねつつ助手席に同乗しながら、何ら適切な助言等をすることなく漫然仮眠を貪つて本件事故を惹起せしめるに至つたものであり、工藤の無資格、技倆未熟および酒気帯びの事実を知悉している被告人としては、当時の速度、路面の凍結状況および対向車の存在等の事情から客観的に結果発生を予見し得たものと考えられ、被告人の運転経験からすれば結果回避のための適切な指示、助言も可能であつたと認められるから、被告人には前記注意義務を怠つた過失があると認めるのが相当である。(以下省略)(矢部孝 中村義正 半谷恭一)

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